昭和四十三年六月十日 月次祭


 どうでも、本当の幸せのおかげを頂きたい。本当の幸福のおかげを頂きたい。ですから、その本当の幸福を頂くために、これならば、この調子で行きさえすれば必ず幸せになれるぞ。この生き方で行きさえすれば、必ず幸福になれるぞ。しかも、この生き方でなればこの世だけではない、あの世でも幸せすることができるぞ。と言うものをですね、お互いが信心によって得ようとするところに信心の稽古がある訳なんですね。
 どうぞその、眼目を間違えんようにして信心の稽古をしなけりゃならん。こういう生き方で行けば本当のおかげを受けられる。こういう生き方で行けば幸福に、必ずなれる。そういう一つの見通しを付けて、信心の稽古がなされなければなりません。
 ところがその、日夜ここでお話を頂いておられますから、こういう信心、こうすることが本当だと。こうあるべきだということがだんだん分かってきた。皆さん分かっておい出られる。ところが、私どもがね、時に迂闊にしてそれがなされていない。そすと、神様も迂闊にしておかげをやり損ないなさるということになるのです。もう、神様はね、合わせ鏡と同じとこういわれるのですから、おかげだけは本当のおかげを頂きたい、そして本当の信心は出来ないというたんでは、それは、決して難しいことではない。今日はその、お互いが分かり切っておること。そんなことは知っておる。そしてそれが出来ていないことをですね、一つ聞いて頂きたいと思うんです。
 だからね、すぐに実行ができること。本当の信心とはこんなにも見やすいものだということ。分かれば。それを、しかし行に現さなかったら、論語読みの論語知らずという結果になる訳です。お道の信心は知っておるだけではいけない。
 今日、先ほど御祈念の一時間ほど前でした。福岡から毎朝お参りの方が居られます。大変難儀な人間関係です。大変難儀な問題なんですよ。為に、そのお母さんのほうがここで言われることなんです。「今まで信心させて頂いて十八年間、親先生の言われる通りにしておかげを受けなかったことがない。あんたも知っとつやろ」とこう息子に言う訳なんです。親先生任せにさえなっときゃおかげを頂いてきた。だから、この問題だって親先生任せにならせて頂き、そういう腹でお伺いをさせてもろうておかげを頂かなければいけないとこういう訳です。
 成程、合楽の所謂前身であるところの椛目ではそのことがさかんに言われましたですね。「ついて来なされこの提灯に消して苦労はさせはせぬ」。この提灯についてさえくれば苦労はさせんと、所謂、神様任せということは、親先生任せということなのだ。「舟は帆任せ風任せ 神様任せは親先生任せ」。そして、その親先生任せになっておかげを頂いていけばおかげを受けられる。氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますから」という三代金光様のみ教えをいつも、度々のお説教に頂いた。皆さんがそこのところをようく暗記が出来取られるくらいだと思います。
 成程、そういうおかげを十八年間、その方が言うように頂いてきた。その方は、元こちらの田舎の方に居ったんです。で、福岡のほうへ行って大変おかげを受けられた。そこで、私が申しました。こういうもんだと。
 言うならば、本当に死ぬか生きるかと行ったような問題。それをね、神様任せになっとけばおかげになるといった信心は、〇〇さんもう止めにゃ行けませんと申しました、私は。成程、その問題は神様にお預けする。だからどこにも行くことはいらん、ここにも行くことはいらん。もうお任せさえしとけば良いというのである。けれども、もうそれではいけない。考えてみてご覧。この問題の一番根本は、この人が悪かつ。息子が悪かつ。その元をたどると親の信心がなっとらんからだ。息子でもなければ嫁でもない。結局あんたどんの信心の不行き届きが、こういう神様に御心配をかけねばならないような問題が起こったんだ。そこのところは分かった。もうじゅうじゅう分かった。そんならあんた、分かろうがの。その問題を神様任せになって、どこにも頼み行くことはいらん、ここにも頼み行くことはいらんけれども、そこが分かっておるならば本気でお詫びの信心をさしてもらいなさい。そうすれば、神様任せになっておかげが頂かれる。心配は要らん。けれども、自分は忙しいの、朝起きはでけんのというてから、その信心もできずしておいて神様任せになっとけばおかげになると言うような、言わば浅はかな考えでは今度の場合おかげにならんよ。手を尽くすだけ手を尽くすか、それでなかったらお詫びのためにでも、一家を挙げて信心をしっかりやりなさい。
 私はね、神様任せになっておるということは、例えば、そういうような難儀な問題が起こった場合です、ね。親先生が右と仰って頂いたから、左と仰って頂いたから、それをそうすることに腹を決めただけではなくて、それが本当のおかげになってくることのために神様に打ち向かう一心というものが立てられなかったら、本当のおかげにならない。本当のおかげということはそのことが成就するということだけではない。そういう問題があったおかげで一心に打ち込んだら、今まで知らなかった信心の世界にも踏み入ることができた。そして、これが目指しではなくて、こういうすばらしいことを分からしてもろうたり頂くことのほうが本当だということになってくるときに、初めてそれは難儀ではなかったということが分かってくるんだ。と言うて、まぁお話したことです。
 親先生任せにさえなっときゃ、親先生が言う通りにさえしときゃ。それはね、本当に天地がひっくり返るようなおかげになってくるんですよ。これだけは。もう絶対開けんはずのが開けてくるんです。そこに不思議な不思議な働きをお互いが体験させて頂いておる。けども、そこだけに依存というかね、それだけがおかげであるのではなくて、そのことによって進めた信心そのものが有難いのである。そのことをもって、いよいよ神様を信じ切れるようになったということが有難いのである。
 分かり切ったことを分かり切ったようにしていくのが信心。分かったことを分かったようにせにゃいかん。
 皆さんが分かっておられる。お百姓される方ならば、一切は神様の御用をさして頂いておる。自分が作る麦でもなからなければ、米でもない。自分が作る野菜でもない。その野菜を、その米を麦を自分が先に刈り取る。そういう信心のところからね、所謂神様がお手伝いをしてくださるというようなおかげは頂けますですね。今日から麦刈りを始めましたと、こういう。それで自分はお取次ぎを頂いたつもりでおる。日頃の信心はどこに置いとる。なら、今日刈った分は自分のもんと思うて刈ったか。神様がまぁだまぁだ、まぁ二・三日待てと言いなさるかも分からん。ご主人が。それを自分が刈っといてから刈った後に、今日から麦を刈りよるけんどうぞよろしくと言うて、例えばお届けをするなら、それはどういうことになるでしょうか。自分のものを刈り取って、これからもまぁだせんなりませんからどうぞよろしゅうという。神様が、言うなら後ろから付いて来なさる感じでしょうが。そういう信心はみんながよう分かりきっちゃるとでしょうが。どうでしょうか。米と言や、お百姓さんの二大収穫でしょう。そういう大変なことをです、神様にお願いもお届けもせずして鎌入れをしたということが、どんな御無礼になるか分からん。というぐらいな事は皆さんわかっとられるでしょうが。どうでしょう。種を蒔かせて頂いた。今日は先生何々を蒔かせて頂きました、どうぞよろしゅう。もう自分が蒔い取る。自分が蒔いて、後はどうぞよろしゅうお願いしますというなら、ちょうど、自分が先立ってから、神様が、どうぞ虫のつかんようにお願いしますよと、神様を丸で虫取りのごつ思うておる。そうでしょうもん。それではね、それでもね、おかげは受けられるですよ。やはり。お取次ぎを頂いて、行うた。それが良いこと悪いことにつけみんな良い。お取次ぎを頂かずしておったこと。良いこと悪いことすべてが悪い。この信念に立ってからの信心生活というのがね、例えばそのために、おいちょっと待て待て、今日鎌入れをするというても、まぁだお届けがしちゃないというて遅れたって構わんて。そうして、例えば、雨に濡らしたとか、日に照らされたとか言うならね。それが必ずおかげの元になると信じなければいけん。そうでしょうもん。もうこのくらいのことは皆さん分かり切っておるのじゃないでしょうか。先生今日は何々を蒔かせて頂きます。どうぞよろしゅうお願いします。まるきり神様にこれから先のお手伝いをして下さいと言うようなもの。これを蒔かせて頂こうと思いますから、どうぞよろしくお願いしますと、例えばお取次ぎを頂いて、蒔かして頂いてこそ、初めてお道の信心者の生き方じゃなかろうかと、これは百姓だけのことじゃない全てがです。それを収穫さして頂くでも、今日はいっちょ何を切れ、今日は何を取れ。と言うことではなくて、明日は何々を刈らして頂きますから、明日は何々を刈らして頂きますから、とお許しを頂きお取次ぎを頂いてから、それを収穫させて頂くということがです、本当のことじゃなかろうかと思うのですよ。それが出来てなかったら本当な事になってこないのです、次が。本当の幸福に繋がらないのです。もう皆さん分かり切っておられることが疎かになされておる。
 今日鎌入れをするということをです、例えば一日遅れたっちゃどうあるか。いや、例えばそのためにわざわざお取次ぎを頂いて、何時間を費やしてもどうあるか。そこのところの原理とでももうしましょうかね、なぜそうしなければならないかということは皆さんよう分かっておるとでしょうが。
 神様の、例えば、稲作りなら稲作り、麦作りなら麦作りをなさって下さる。そのお手伝いを私どもはさして頂いとるとでしょうが。それをお手伝いするものが先立つようなことで、よかろう筈がない。 私はこの辺のところをですね、徹底していくところに、その人が変人ぶりを発揮していくことだと思う。直いということ。「変人とは直い事」と仰る。「まぁ待て待て、一寸お取次ぎを頂いてから鎌入れぞ」。そこんにきをわかっとってからせんということはどういうことになるか。所謂実意丁寧を欠わけなんですよ。済んでしもうてからどん「おかげを頂いてから取り入れを済ませて頂きました。おかげで今年は大変多ございました」。と言うように、済んでしもうてからどんお届けをする人がある。信心はわかっちゃるとじゃろうかとこう思う。それだけなんですよ、本当のことになってくるか来ないか。信心は変人になれ、変人にならぬとおかげは頂かれん。「はぁ、昨日お取次ぎ頂くのを忘れとった。ちょいと皆さん待って下さい」と、例えば人夫さんを雇うとっても構わんじゃないの、一寸待たせてからお取次ぎを頂きにくる。本に金光様の信心をすれば窮屈だなというて、変人振りを笑う人があるかもしれん。けれども、そこんところの手数を取ることが実意丁寧神信心なんですよ。
 ですから、見や-すいことでしょうが。お取次ぎを中心にしてから、私の生業というもの、生活が成り立っておる。と言うことが分からして頂いたお道の信奉者であるならばです、ここんところを大事にしなければいかん。一事が万事にそう。分かり切ったことを分かり切ったように実意をもって成さしてもらうということ。
 これは、新しい、今日は分かり切ったことを話しておるんですけれども、今日は分かり切っていないことでしょうけども、実意丁寧神信心ということですね。私どもの信心から我儘と、横着を取り除かしてもらうことが実意丁寧神信心だとこういわれております。ですから、実意丁寧神信心とはね、極論するとこういうことになるのです。自分を空しゅうしていくという稽古。実意丁寧神信心とは。いつも自分が空しゅうなされていくことを稽古すること。
 これは一寸難しいですね、説明頂かなかったら。
 自分が右にしようと思うとる。それを左にしてくれと、こういう訳です。そういう時に左にして良い、悪いは別です。そういうときに自分が右にしようと思うとったことを捨てることが自分を空しゅうすることなんだ。自分のものを無くしていくこと。そういう稽古。そこんところに事情が付く。俺の言うことのほうが本なこつ。俺のほうが本当だ。そこに腹立ちやら、心を汚すようなことになってくるんです。
 実意丁寧。自分をいよいよ。だからある場合には自分を犠牲にしていく。だから、そこんところが、それを有難く、楽しゅう自分を空しゅうしていく、犠牲にしていくことを一生懸命稽古していくうちに、これが、段々無くなっていく。無くなっていくところに不幸の元である、我が取り払われていくのです。この我がある間は、お互いが幸福にはなれないのですよ。私が言うことが本なこつと思うばってんと、思うとる間は幸せにはなれん。
 だから、犠牲的な精神、いわゆる奉仕の精神。自分を空しゅうしていくということに本気で努力する。そこから、そういう努力をしたものでなければ分からんところの有難いものが、これには必ず繋がってくる。自分を空しゅうしたということが有難い。
 今日、お祭り前に光橋先生が前講を務めておりました。最近合楽で言われております。いよいよ自分の心に帰依をするということ。自分自身の心を拝む稽古をすること。親先生の信心に帰依すること。親先生が説いて下さる御教えに帰依すること。このことからどういうものが生まれてくるか。どういうような場合でも、、、ね。
 例えば、ここに、今朝からも、いつも佐田さんの車で毎朝お参りをしておるのですけれども、今朝は佐田さんができなかった。ですから、一寸待てばバスもまだあるけれども、歩かせて頂こうと思うて歩いてきた。お湿りの中を。その中にです。成程楽なほうをとったんではこういう有難いことは頂けないという体験をさして頂いた。もう有り難うしてたまらん。と言うて、ね。そこに自分の我情というもの、自分の思いというものを空しゅうした。自分の思いを無くしたところが、わが身は神徳の中に生かされているという喜びが待っておった。そういう喜びの心を開かせて頂くということが有難いという意味のことを、短い時間のなかで言うておられましたが、本とに合楽の信心のすべてだと、後でここで申しましたことでした。
 合楽の信心の全てなんだ。その内容としてです。分かっておることをお互いが分かっておらんもののような事をするとこに、言うたりするところにです、何時までたっても本当な事の展開になってこないのだ。
 今朝の御理解の中に、御理解四十二節が御座いました。「これ程信心するのにどうしてこのような事が起きてくるであろうかと思うたら、その信心は止どまっておる。これはまだ信心が足りぬからだと、一心を立てればそこからおかげが受けられる」と言う御理解だった。それを、これとはまた違った角度からのみ教えでした。
 そしたら、御理解を頂き終わってから、ある方がこられた。「先生、今日の御理解を頂き終わってから、私はおかげ頂いております」という。「どげなおかげ頂だいとんなさるですか」「私はここに通わして頂くようになって十八年。一番初めからおかげ頂きよる。それに、おかげ頂いて、どういうことあっても、これ程信心するのにどうしてこういうことが起こってくるじゃろうかと言うようなことをまぁだ思うたことが御座いません」「そりゃ、ばさらかおかげ頂だいとんなさる。それは、あんたがこれ程信心するのにと言うこれ程の信心をせんからそげんたい」と私は申しました。
 どこを押せばそんなことが言える。言えん。「そうでしょうかね」と言うてから、何か不服そうな顔しちゃる。それで今日の御理解のどこばあんた頂いたかと私が言うんです。例えばどのようなことが起こって、難儀な起こってもそう思わんというだけではなくて、そこをね、これは信心が足らんと思うて一心を立てていけば、そこからおかげが受けられるという、そこからのおかげを受けておらんじゃないか。それじゃ、今日の御理解が有り難かったとは言えんよと。
 私は不平不足だん絶対言わん。もうどげなことなったっちゃ神様を恨むようなことはせん。だけじゃいかん。勿論、そういう思い方はいよいよ信心が止どまっておるのです。こげん信心するのにどうしておりだんおかげ頂ききらんじゃろうかねえやと言うて、夫婦で話すようなら、いよいよ、その夫婦の信心が止どまっておる時なんです。「私だんこげん信心するとにどうしてこげんおかげ頂ききらんじゃろうか」ち、同じとこばっかりぐるぐる回りよる。頂いたかと思えばまた、元の木阿弥。どうしてじゃろうかねや。信心が止どまっておるからです。
 今朝の御理解は大変、私も意味が分からなかった。生命感。流動感。流れに流れて動いておる。信心が命としての、信心が何時もビチビチとしておらなければならない。それにはこの四十二節の御理解を繙いてみよ、ここのところをこう頂くとおかげ頂けれる。こう頂くとおかげの頂けない訳が分かる。という御理解だったんです。
 そこで私共がね。思うて見れば、思うて見るほどこれ程のおかげを頂いておる。これ程のおかげを頂いておるのに、「お母さんこれで良かじゃろうかね、俺達の信心は」と、子供に話すときに、今日、先程他の方達に話したんです。この子供たちが育ち立ちのときはどげんじゃったか。それをこういうおかげを頂かせて頂いて、これで良いだろうかと言ったような雰囲気が、あんた達の家庭にないけんでこんな問題が起こっとるとよと、私が申しました。
 「もうどんなに考えてもおかげを頂いておる。このようなおかげを頂いて、お母さんこれでよかろうかね」と、「これで良かとは思わん。こんなことじゃいかんですのうや」と、例えば言い暮らしておるような信心。これ程信心するのにどうしてこのようなことが起こってくるというのじゃなくて、これ程のおかげを頂いておるのに、これで良いだろうか。これで良いだろうかと。言うような信心こそが、流動感があるところの信心。ですから、何か機会がぽんと与えられる、難儀と感じるようなことが、痛い痒いが起こってくるときに、これで良いだろうか、これで良かじゃろうかねと、話合っておることが、さぁ夫婦が勢を揃えた信心が、親子が勢を揃えた信心にと言う風に、ここから飛躍していくんです。という四十二節の御理解のね、又、側面から頂いたような御理解。
 皆さんの信心の中にでも、夫婦でなら夫婦で、親子でなら親子で、本とにこれだけのおかげを頂いて、見回してご覧。これ程のおかげを頂いておるのに、これで良かろうかと、何時も思う信心。それが、生命感に溢れた信心である。ですから、私共が、何か機会がポッとあると次の信心にポット飛躍しておるでしょうが。飛躍しておるから、本当に夢にも思わなかったおかげに進展してきておるでしょうが。椛目から合楽にかけて。問題がある度にこれで済んだとは思わない、これで良いとは思わないという物があるから、そこに難儀なら難儀が起こってくることによって、信心が何時の場合も飛躍している。飛躍しておるから次のおかげは約束されたように広がってきておるのである。
 これで良いとは思わない。どうしてこんなことが起こってくるじゃろうかと、例えばそれを言わん思わんだけではいけないことが分かるでしょう。
 本当にこんなおかげを頂いて、思えば思うほどこんなことで良いだろうか、こんなこっちゃ相済まんと思いますと。ところがなかなか踏ん切りがつかないのが、何かそこにことがある度に、あることによってです、私の五時の御祈念が四時の御祈念になったように、ハッと次の信心に飛躍していく。 三代金光様の真似はとても出来んと思うておったけれども、内容はとてもとてもだけれども、真似方だけでも今でけておるということが、朝の、日々の感動だ。それも、常に自分の心の中に「これで済んだとは思わない。これで良いだろうか。これだけのおかげを頂いてこれで良いだろうか」と思うておるから、本当のほうへこう飛躍していくのですよ。
 どうでしょうか、皆さんの信心が生命感溢れた信心であろうか。流れに流れ切っておる流動感が皆さんの信心にあるだろうか。先ずそこを頂かなければ行けません。それには実意丁寧神信心。本気で自分を空しゅうするという稽古。自分を空しゅうする稽古にならせて頂いたら、今日の光橋先生の話じゃないけれども、場合にはきついほう、しるしい方を取らなければならないこともあるて。けども、これを楽なほうを取って、言いたい放題のことをいい、したい放題のことをして、おかげのごとあるけれども、今まで積み重ねてきた信心すらが崩れてしまう。さぁここが辛抱のしどころだ。生神金光大神様を唱え続けて、しるしい方を取らせて頂いたら、ここにこういう有難いものがあった。有難いものが頂けたということになる。そこに実意丁寧神信心を貫いていくものの姿というものがある。
 ですから、ここのところは分かり切ったことですから、そこを分かり切ったようにですね、させて頂かなければいかん。
 今日善導寺の原さんが朝のときにお届けをしておられました。先日、今度は青年会の方達が、若先生以下25名ですか。御本部参拝のおかげを頂いた。只今帰って参りました。中に原さんも一緒にお参りしております。もうこの頃、勤めのほうも度々休まれないという事情にあるけれども、ここはどうでもおかげを頂きたい。それには金銭のおかげも頂かなければいけない。ところに、前の朝の御祈念の後に若先生にお取次ぎを頂いた。「どげんさせて頂きましょうか」ち。そしたら若先生が、こういう風にお取次ぎ下さった。お取次ぎを頂くという事は有難いことだという訳なんです。一遍に腹が決まった。「原さん、なんでんね、トレ-ニングが大事だ」。所謂稽古が大事だとこういう。「それにね、十の力がある者が、八から九までの稽古をしとった分じゃ原さん、ぜんぜん稽古が稽古にならんよ」とこう言うた。「自分に十しか出けんならば、十一のところ、場合には十二ぐらいのところにです、手を伸べていくというような信心をさせて頂かないならば、信心の稽古をしとるとはいえんですよ、原さん」。はぁ-っ本とに素晴らしい事だと私も思うた。
 お互い信心の稽古をさせて頂いておるので御座いますから、ここで言えば、言うた方が楽なんです。ここでこうしたほうが楽なんです。けれども、これが信心でないと見たらです。そこを「金光様!」と、辛抱することは少しはきついけれども、本当の信心の稽古をさせて頂だいとると思うて、少し爪立つ様にありますけれども、そこんところに信心の稽古がでけて行くところに、十の信心がでけて行きよったものが十二の信心が、もう楽に出けるようになる。
 おかげでそういう風に昌一郎に申しましたから、親戚に往生人があっとるとか、嫁御が悪かとか、なんかそげん言うちから暇をもろうてきました。と言うてから腹が決まった事をですね、そういう風に言うておられました。ですからね、お互いがね、ここには信心の稽古に通うて来ておるということなんです。ですから、信心の稽古はね、すこうしは窮屈であっても、少しは自分で難かしかっても、そこをなしていくという事が信心の稽古であり、実意丁寧神信心を本気で行じて行っているものの姿であります。
 神様のお商売。神様がお百姓して下さっておる。それを私共がお手伝いさせて頂いておるというものが、神様にお伺いもせずに仕入れたり、神様にお取次ぎも頂かずに鎌入れをしたり、神様にお取次ぎも頂かずに種を蒔いてから、そして、今日は何々を蒔かせて頂だいたと言ったような信心からはですね、本当な事が生まれてこない。見やすいことであって、そこんところが行じられて行くということが信心であるならば、見やすいことになるでしょうが。しかし、いよいよ稽古という時には、少しは、トレ-ニングですから、自分にはちっと無理だけれども、そこへ手を伸ばしていく信心から、信心の成長はある訳です。
 実意丁寧神信心をね、お互いがさして頂いて、それが信心の命である。お道の信心の生命である。そこが疎かになったならばですね、神様のほうもやはり、おかげが疎かになる。たったそのくらいのことで神様の手を疎かにさせているようなことでは、神様に対しても相済まん。神様には十分に働いてもらわにゃならん。「氏子が心配すると神は心配せんですむ」と仰る。氏子が道に外れた事すりゃ神様のほうもおかげの道を外しなさる。だから心配は神様にしてもらわにゃならん。ですから、こちらは、私ども信者氏子は氏子としての、道というものを本気で行じて行くということが実意丁寧神信心。そこのところを行じさせて頂く楽しみ。
 今日の御祈念前迄に伊万里の竹内先生達が夫婦で御礼に出てみえておった。今度、福岡だったかな、あちらのほうに出張だった。それにもう、汽車のなかでずう-っと日頃整理してなかった御理解を整理させてもらったり、読ませて頂いたりしながら、改めて、合楽の信心の素晴らしいこと。本当に教祖の時代のあの純真な、あのご理解が今の時代にこのように深く広く、しかも教学的に説かれておるところが他にあるだろうか。これは、只事ではない。何とかしてこの御理解を、どうかして、本気で整理せにゃならんという風に思うたと、こう言うておられます。そして、そこにもここにも神様を感じる。
 ホテルに二日ですか、三日ですか三っつの旅館ですか、ホテルですか泊まっておられます。そこでの、他のことはちょっと忘れましたけれども、ある旅館に行ったところが、通されたところがね、沖の間と言う間じゃった。さんずい辺に中という字が書いちゃる。「神様、お恵みの中にこうしておかげを頂いておる」と思うたら、沖の間であると言うことが有り難うしてたまらじゃった。有難いからこそ信心にもとるような事は出来ない。そういう生き方になるから、このことが思いもかけない、交渉なら交渉の問題がですね、思いもかけないおかげのほうへ進展していく。神様を何時も自分の心の中に実感できれる信心。神様が、「さぁ、神を中心にして」と言うて囁きかけて下さっておるのだけれども、それを聞こうとしない、不実意な事でどうして、おかげが頂けるはずがない。
 「どうぞ、種を蒔きましたけんよろしゅうお願いします」。成程頼まれなさったからには、やはり面倒を見なきゃいかん訳です。見なさるでしょう。けれども、これは私のものをどうぞよろしくお願いしますということと同じことでしょうが。「神様。何を蒔かせて頂きます」、「おかげを頂きました。これを今日刈り取らせて頂こうと思いますが」と、私はお取次ぎを頂かして頂けるような信心から、そこに、神様の働きが得られるのです。 例えば、三日間なら三日間泊まられた部屋の、その番号からとか、又は部屋の中から、神様を身近に感じておられるというように、だから。「先生、そういう頂き方が、合楽的な考え方ですけど、それはね、よその方が聞いたら、何かくだらん事のように、低級なように言うんですもんね。けども、ここん所は合楽的なところですからね、頂いていかなければ行けません」と言うてからお話したことですけどね。そこのところが疎かになったら、合楽の信心の素晴らしい信心が、例えば分かっていきよってもこれは駄目。そういう、例えば、今度は何という部屋に通されるだろうか。と次の日が楽しみになってくる。その次にはね、紅梅という部屋じゃった。紅い梅と書いてある。こりゃ口紅付けたつどんが誘惑によってくるかもしれん」そう思うたち。どげな誘惑があったっちゃ、絶対辛抱してから頑張らにゃでけんぞと言う様にと、笑い話のように言うておられましたがね、そういうことにでもおかげを頂く。そりゃ紅白粉付けたつどんがやってきたっちゃ、神様から先頂だいとるけん騙されはせんぞと言う、やっぱ気持ちがありますからね。やっぱおかげを受けておられる訳です。神様が先手、先手を打っておかげを下さるとこう言う訳です。
 だから、先生のそういう頂き方が、それを信じておられるところに、そこにね、そこに神の働きがあるのです。だから、そういうね、生き方が、実意を欠いだら、もう外れてくる。神の働きをそこに見ることができる。神の声をそこに聞くことができる。これがお道の信心。分かり切ったことを分かり切ったようにさせて頂くという事を、もっと見やすい例で、今日はね、例を出したんですけれども、結局また難かしなりましたようですけれども、お互いが、本当にこれほど信心するのにどうしてこのようなことが起きてくるであろうかと言うて不平不足を言いませんと言うて、安気安穏に、自分は御教えを行じておるというような気持ちでおったんじゃおかげにならん。あんたが一心を立てんから次のおかげになってこまいが。それだけではない。これほどのおかげを頂いておるのに、お母さんこれで良かろうかね、これでよかじゃろうかと言うような在り方の中に、信心の生命感。信心が生き生きと、びちびちとしてくる。生きた信心が、そこから、何かの機会にまた、飛躍していく。そこから、おかげの頂けて行けれる信心。そういう信心を日々自分が身につけていくということから信心の楽しみがある。「さぁ、この次は何という旅館に泊まるじゃろうか」という楽しみがある。神の声をそこに聞くことができる。こう言う生き方で行けば、今はこうであっても、必ず、これが人間の真実の幸福に繋がるんだということが、信念される。そのことを確信しての日々の信心生活がそこからなされていく。
 お互いが、本当の幸福の日々を送らして頂かずして、溢れる幸福が待っておるはずは絶対ない。こういう身近な、こう言う中にでも、こう言う、神様がお計らいを下さるということが有難いと実感させてもらう。そこに、これで良いじゃろうか、これで良いじゃろうか。毎朝参りよります、毎日こうして御用させてもらいよります。お供えをさして貰いよりますというだけで腰掛けておってはならない。これで良かじゃろうかこれで良いだろうかと、所謂自己を肯定しないでの生き方がそこにある。そういう生き方が家族中になされていくときに、何かの機会がぽっと与えられるときに、こりゃぁ、あなただけじゃいかん、私も朝参りについて行きましょう。息子に、お前もついてきてくれというようなきっかけが生まれてくる。そこに、信心が限り無く進展していく。新しい、より信心が進展していく。流動感が生まれてくる。そこから、尽きない、限り無いおかげに浴していく幸せを感じて行くことができる。
 これで行けば、これさえ体得しておけば、人間の幸福は絶対のものであると分からしてもろうて、その絶対の幸福の元というものが家内に伝えることができる、子供に伝えることができる。これだけは頂いておかなければと言うことになってくる。これほどの幸福をこの人にも分かち与えなければやまんというようなおかげにもなってくる。只、お願いしておかげを頂くことだけがねお道引きの元であったんじゃでけん。その根本的な、そういうところの、お互い幸福になりたい。本当の幸福になりたい。と願わして頂くならば、本当に幸福になる道を歩かなければいけない。
 願いは幸福になりたいと願いながら、そして、行ずることには、思うておることには、それとは反対のことを行じておったり、思うておったり、すこしは難かしいと言うところに手を出さずに、楽なほうに楽なほうにと信心が転がっていくような信心では、よしそこにおかげは頂いておってもおかげは頂かれん。
 今日ある人が、本当に最近おかげを受けたんです。ここからいっちょ家族で、今まで信心がなかった子供たちにまで信心をさせてから、もういっちょ信心を頑張らにゃいかんよち、私がその方に言よりますけれども、その方が、どうも忙がしなったら、忙しさにかまけてしまって、二日に一遍、三日に一遍になってしもうた。それからそのことをお届けさしてもらいよったらですね、いの豆がこう出ておるところを頂いた。